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明治天皇御膳水の碑



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歴代の和尚様と示寂年月日

開 創 月山智海大和尚 寛政 六 年(1794) 六 月二十七日
開 山 覚海真禅大和尚 文政十一年(1828)十二月二十二日
二 世 謂岸魯態大和尚 安政 五 年(1858) 八 月二十六日
三 世 弘巌曽禅大和尚 文政 十 年(1827) 八 月二十八日
四 世 正巌亮伝大和尚 
五 世 曽巌禺渓大和尚 安政 二 年(1855) 三 月  一 日
六 世 富峰天産大和尚 高林寺へ転任
七 世 定巌禅隆大和尚 真禅の法弟
八 世 潭底門大大和尚 玉雲寺へ転任
九 世 全提渇宗大和尚 
十 世 聯芳祖灯大和尚 魯態の法弟
十一世 悟山観亮大和尚 明治 六 年(1873) 九 月  五 日
十二世 祖園華嶽大和尚 明治二十六年(1893) 十月 三十日
十三世 英仁国雄大和尚 明治三十三年富士見町瑞雲寺へ転任
十四世 天外玉峰大和尚 明治三十四年(1901) 九 月十二日
十五世 萬法如禅大和尚 昭和三十二年(1957) 六 月十八日
十六世 太機活禅大和尚 平成 十一 年(1999) 八 月十三日
十七世 得安恒栄



円通山宗湖寺の由来

 円通山宗湖寺は諏訪家中興の祖諏訪頼忠公(法名永明寺殿晃山宗湖大庵主)の菩提所であります。天文十一年惣領家諏訪頼重が武田氏によって滅ぼされて以来、雌伏四十年上社大祝職にあった頼忠公(頼重の従弟)は、密かに再興の機を窺って居りましたが、天正十年武田氏が天目山に滅び、織田信長も又本能寺の変に討滅されるや、いち早く兵を挙げ再び諏訪の地を旧領に復しました。しかし時勢の変遷は更に厳しく、やがて豊臣の治政となり、凡そ十年の間武州・上州と彼の地にあったのでありますが、慶長六年関ヶ原の戦功により、再び故国諏訪の地に移封となり、頼忠・頼水父子領民歓呼の裡に旧領に復帰したのであります。帰国後四年、頼忠既に齢七十一歳を閲みし、慶長十年八月二十一日その寿を全とうして卒去、永明寺(茅野市上原地籍、上原五山の一ツ)に葬られました。
 後寛永七年故あって永明寺は破却され、それ以後は頼岳寺境内に牌所として頼忠(宗湖庵)頼忠室(理昌院)が建立され後世に至ります。
 文政年間頼岳寺十九世覚海眞禅和尚が格別の由緒ある宗湖庵の疲弊を憂え、本堂の建立を計画し、藩主忠粛公夫人眞操院の多大な援助が之れに加わり、眞操院の関係に因って、藩士山田氏が表面に立ち家老千野氏が背後にこれを援け成立に至ったのであります。
 文政五年十一月法地願書提出、始め眞禅和尚を以って開山とし許可されましたが、文政六年加賀大乗寺五十世として転住となった為、急遽眞禅は其師月山智海和尚を開山とし加賀に赴いたのでありますが、任地にあっても尚宗湖庵建設には心を砕き、基金調達の為、自ら、托鉢をする等、涙ぐましい努力をし、文政六年法地免許以来遅々として建設の進まざるを知るや、終りに文政九年大乗寺を辞し、本格的に宗湖庵建設に奔走したのであります。漸く十年春より建築始まり願書提出以来六年の歳月を要して完成したのでありますが、普請にあたっては、千野兵庫より多数の材木(皆栂材)、藩よりは屋根葺材の抄太縄、郡中村々より屋根萱三百五十駄、頼岳寺より欄間の木板及び材木、茅野村、村山から_木二百十三本、祝神の欅一本、上原峯ノ松ノ木一本、下組中より山ノ神の松一本等の寄進を受け、大工棟梁、立川治右ヱ門富保及びその下職により請負金三十二両一分二朱五匁、総工費百二十六両二分と銭若干を以って本堂・開山堂・土蔵・東司と諸堂の完成を見たのであります。
 かくして宗湖庵に帰住した眞禅は伝法初祖として文政十一年十二月二十二日同庵に於いて示寂しました。後年屋根葺替・位牌堂増築、庫裡改修が行われたほか、参道には嘉永年間九世全提渇宗和尚の発願に因り十世祖燈和尚の代に亘って、村内信徒の寄進による西国三十三番観音及び供養塔が立てられ昔日を偲ばせて居ります。
 かくして眞禅以来連綿、茲に第十七世の法燈を嗣ぐ久保田恒栄師を迎え、晋山結制の儀が行われるにあたり、宗湖寺の由来を略記し後に資せんとするものであります。

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